特集2(B) 『いつも心に温もりを』
人の温もり・生きることの喜びと悲しみ、切なさ
人間だからこそ味わうことのできる色んな感情を
この本にギュッと閉じ込めた一冊。
どの文章も、根底には愛があります。
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小さな秘め事 紅葉のころになると魚屋の店頭に、トロ箱に盛られた鯖が目に留まる。 鯖を見ると五十年以上も前の祖父の笑顔と、身振り手振りを交えたことばを思い出す。 「鯖はなあ、皮に艶があり手に待ったとき、ピンと硬直しているものが、活きがいいのだよ」と、自信満々と言い、必ず付け加えるひとことは、 「鯖は鮮度が落ちるのが早いから『鯖の生き腐れ』と言われているくらいだ、手早く調理しないとだめだよ」と、食材の見分け方、調理の仕方に詳しい、父方の祖父は旬の物の、美味しい食べ方を教えてくれ、食材も届けてくれた。 なにより嬉しかったのは、戦争で父を亡くし、戦後の食糧難のとき、母は四人の子どもを育てるために、食べ物の買出しに四苦八苦していた。家族の食料調達にも困っていた当時なのに祖父は、自分の家と同じように外孫の私たちにも食材をいつも届けてくれた。 あの日は十一月の中頃、秋鯖の美味しい時季だった。祖父は仕事帰りにいつものようにわが家に立ち寄り、 「島さん(母の名前)みんなでこれを食べんせえ、鯖は今一番脂がのっていて美味しいでなあ」と、新聞紙に包んだ鯖を母に手渡した。母は押し頂くように、 「お義父さんいつもすみません、ありがとうございます」と言いながら、祖父の姿が遠ざかるまで、頭を上げなかった。 私たち姉妹は夕食を想像しながら、諸手を挙げ、飛び上がって喜んだ。 暫らくして、母が台所から、 「澄子、急いでおじいさんの家に行って取り替えて貰って来て。魚の包みをあちらのと間違えて置いてくれているの、七切れあるわ」と、母の慌てた声。わが家は五人家族、祖父の家は七人家族である。母が慌てたのは、祖父の家族の人数分に鯖が足りないことが申し訳ない気持ちと、夕食の支度に間に合うようにとの思いだったのだろう。 私も母の気持ちを察してすぐに承知して、母が持ちやすく包んでくれた鯖を抱えて、近道を選んで、祖父の家へと小走りで急いだ。 勢いよく祖父の家の玄関に入ると、義伯母さんが出てこられた。私は義伯母さんに、お祖父さんから鯖を頂いたこと、そのとき、鯖の包みを間違えて置いて帰られたことを話し、取り替えにきたことを伝えた。 しかし、義伯母はなんの返答も無く口を一文字にかたく結んで、水屋から新聞の包みを台所の床に勢いよく放り出された。 新聞紙はパッと開き血の滲んだ赤黒い身や、青光りのする皮を見せて五切れの鯖が床に散らばった。私は慌てて、だいじな鯖を寄せ集めて、水分が滲み所々に穴の聞いた新聞紙に包んで、胸にしっかりと抱え、 「ありがとうございました」と、小声でそれだけがやっと言えた。が、やはり義伯母さんの声は無く、背で冷たさを感じた。 玄関の敷居を跨ぎ外に出ると、木の葉から滴る雫のような涙が、ポロリ、ポロリと頬を伝って止まらなかった。潤んで見える山間に、刈り取られた稲株を映しながら沈む夕日が、一層私の心を哀れにさせて、とぼとぼと、家路に向かった。 我が家に着くと母が玄関にいたので、私は裏口にそっと回り台所に鯖を置いて、 「お母さん、行ってきたよ」と、声を掛けて急ぎ二階へ上がった。 泣き顔を母に見られてはいけない、まして涙のわけなど母にも誰にも話すまい。当時小学五年だった私はなぜか固く心に決めた。 暫らくすると、生姜の匂いと共に鯖の甘辛い匂いが二階にまであがってくる。間もなく、 「御飯ですよ」と、母のいつもの呼ぶ声が聞こえた。このときばかりは、われ先に四人の姉妹は台所に向かう。目の前にある炊き立ての鯖は切り口の両端を上にそらし、活きの良さを象徴しているようで、添えられた針生姜が一層食欲をそそった。いつもよりみんなの顔が微笑んで楽しい夕餉のひと時であった。 母はあの日から一年後に他界し、義伯母は昨年亡くなった。 いま、古希を幾つか過ぎた私には、食糧難だったあのころの、義伯母の気持ちが痛いほどよくわかる。あの日、夕日の中で流した涙は、戦争がもたらした悲しい小さな私の秘め事である。 平成二十四年度 ふくい風花随筆文学賞 一般の部 優秀賞・仁愛女子短期大学賞 |
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母の形見
平成十八年五月、妹が新築した家に、私たち夫婦を招待してくれた。 「ここが私の部屋よ。いちばんこの部屋が落ち着くの」と、言って、檜のいい香りのする和室に通してくれた。部屋の正面の障子を開ければ、小さいが、手入れの行き届いた中庭がある。妹好みの、薔薇はかわいいアーチを作り、まるで私を歓迎してくれているようであった。 ふと、部屋の片隅をみると、妹が嫁入りのとき持たせた古びた姿見があった。姿見の鏡台の上に刺繍入りの袋に入った物が目に留まった。それが何であるか、私には直ぐに分かった。母の手鏡である。一瞬駆け寄り、手にとって胸に押し当てた。思いは半世紀余り前に遡る。 昭和二十六年二月十七日。私にとって生涯忘れられない母との別れの日である。 私は当時小学六年生で、学校帰りに入院中の母を見舞うため、倉敷中央病院に寄っていた。日ごとに体力の衰えが目立つ母は、私の話に虚ろな目をして微かに頷いてくれていた。 しばらくして母は、「早く帰らないと、暗くなるから」と、か細く、とぎれとぎれに言う。母の青白く血の気の無い手を私の頬にしっかり当て、 「あと、五分だけこうしていてもいい」と、母のそばに居たい私は母に甘えた。すると、母は自分の頭を重そうに微かに横に振り、痩せてくぼんだ目じりから溜め涙であろうか、堰を切ったように溢れ出た。 母の悲愴な面持ちを見て、もうこれ以上母に心配かけてはいけないと思い、私は頬の涙を手の甲で横に撫ぜながら、わざと明るく、「じゃあー また明日来るね」と、母の布団を軽く叩いてベッドから離れた。いつものようにドアの所で振り返り、「バイバイ」と、手を振れば、今までなら寝返りのできない母は背を向けたまま片手を振ってくれていた。ところが、その日は付き添いの姉に手伝ってもらって、手鏡で私を映して見ている。 私はその様子に気付き、慌てて涙を拭きなおし、手を振り精一杯の笑顔をした。姉は、 「お母さんが疲れるから、早く帰りなさい」と、言うように目で合図をするので、しぶしぶドアを閉めた。帰宅しても、夕方母が見せた悲愴な面持ちが目に浮かび、なかなか寝付かれなかった。 そのとき、表の戸を叩く音が聞こえた。電話の有る、隣の家のおばさんが病院からの呼び出しを知らせてくれた。家族で病院へかけつけたときには、もう、医師が母の手を離されたときであった。母は三十七歳の若さで旅立ったのである。 父が昭和二十年に出征し、その年の四月に戦死した。残された四人の子ども、私たちを育ててくれるため大変無理をして身体を壊したのである。当時の母の苦労は今思っても、母はいつ睡眠を取っていたのであろうか。胸が痛む。 母が二十年間毎日愛用していた手鏡で、最後の日に私を映して送ってくれた日のことを、姉は涙ながらに話してくれた 「あの日、お母さんはあんたが病室を出ようとしたとき、慌てて手鏡に手を延ばし、私が手伝って振り向いたあんたの顔を映したの」と、姉はここまで言って涙をぬぐった。その先は母の思いと姉の思いを重ねながら、 「母さんは鏡に映ったあんたの顔を手で撫ぜ、身体を震わせ鏡を胸に抱いて、しばらくの間、泣いていたの」。姉もあのときは、これが最期の別れになるのではないかと思ったことを教えてくれた。 昔、母が手鏡の話をしてくれたことがある。母の手鏡は、母が十七歳のとき島根県の山村から倉敷へ就職して来るとき、祖母が母に持たせたものだった。祖母は母に、 「嬉しいとき、悲しいとき、腹立たしいときに、自分の顔をこの鏡に映して見なさい。そして一番自分が醜いと思ったときの顔は、人に見せないようにしなさい」。祖母からこう言われたと、母は話してくれた。それ以来母は、祖母との約束を守っていやな顔は人に見せないように、悲しいとき、辛いときには手鏡に祖母の顔を心で映し出し、話しかけ頑張ったことを聞かせてくれた。 母の大切にしていた手鏡は妹が嫁ぐとき、 「お母さんとの思い出が、いちばん少ない私が貰うよ、お母さんと思って大切にします」と言って、持って嫁入りしたものである。 母の手鏡は母の十七歳からの人生を映し、七十年を越えた今、手鏡の薔薇の模様は薄れて無いが、思い出はいっぱい詰まっている。 「姉ちゃん、食事の用意ができたから」と言って、私を呼びに来た妹の声に振り返ると、年とともに母の面差しに似てくる妹の顔を見て、また熱いものがこみ上げた。 |
| すて塩 パソコンで打たれた賀状に、一、二行の手書きの文字とことばに、懐かしさを覚えた。 「お元気でいらっしゃいますか、私も十四年目を迎え、もう『すて塩』は探していません」と、書かれた丸っこい小さい字は少しも変わってなくて、十数年前の「すて塩」のことも覚えておられる。私もあの日のことを思えば、頬が自然に緩んでくる。 私が学校給食調理技師として現役のころのことである。 「すて塩って、どこにあるのですか」と、木村さんが食品倉庫からあたふたと出てきて、私に早口で尋ねた。木村さんは、その年の四月に採用されたばかりの新人職員で、一日のうちには何度も慌ててものを聞きにくる。調理黒板に書いてある調味料を計量していた彼女は、すて塩と書かれていた塩を、塩の名前だと思って随分探していたようだ。もうこれ以上探し場がないと言わんばかりの彼女に私は、「すて塩とは塩の名前ではなくて、塩の使い方のことを言うのよ。いつもの塩を計っておいて」と、言うと、「えっ、そうなの」と不思議そうに頭を傾けていた。 それもまあ無理もない。学校を出たばかりで料理の経験のない彼女に「すて塩」の意味が通じないのも当然のこと。これからその都度、少しずつ覚えてもらえばよいことだと、木村さんの輝く横顔を見ながら私は感じた。 翌日の献立にサヤインゲンの胡麻和えがあった。私は、「木村さん、木村さん、ちょっとここへきて」と、呼んで、きれいに切りそろえているサヤインゲンに、塩を刷り込むようにして混ぜてから、 「こうして湯がくと塩が青臭さを抜いて、緑色を安定させ、薄い下味が付くの。このような使い方の塩を『すて塩』と言うの」と、説明した。すると彼女は、少しは納得したのか、「はい」と、うなずきながら聞いていた。 すて塩は、食材の下処理に欠かせないものである。青菜の湯がきに、果物の色止めに、魚介類の臭み抜きに、食材の保存にと、そして食品の下味に。この塩の使い時と、使い方によって料理の味が決まると言っても過言でないことを、私の経験から説明した。 先日、私の友達の家を夫と訪ねたときのことも木村さんに話した。ビールのおつまみがたくさん出された中に枝豆があった。なんとその莢の艶やかな輝き、深緑の冴えた色、口に含んだときの塩加減、塩味から感じられる甘さ。さらに莢の両端をきれいに切りそろえてある心遣い、私は思わず友達に、 「きれいでとてもおいしいわ。あなたが、湯がいたの」と、訊くと、友達はすぐさまお姑さんの方を振り向き、 「お母さんが、湯がいてくださったの、おいしいでしょう。お母さんのひとつまみの塩は、まるで魔法。とってもいい味が出せるの」と、友達はお姑さんの料理の勘の良さに、感服しているようであった。 よほど熟練された指先の感覚であろう。ひとつまみの「すて塩」の大切さを改めて感じた。また、反対に私の体験から、「すて塩」を多く使い過ぎて失敗したマーボ豆腐。豆腐を湯がくときに豆腐の煮崩れを防ぐために塩を入れたのだが、量が多すぎて豆腐が固くなり、味は滲みにくく口ざわりが良くなかった。 失敗の経験があってこそ、成功につながると、私の体験を交えて職場の人間関係のことなど、自分の娘のような気持ちで木村さんに話した思い出がある。 彼女も四年目にほかの職場へ転勤になったが、たまたまその転勤先に私の友達がいて会うたびに木村さんの話が出てくる。友達は、 「木村さんはとてもよく気がつき、細やかな仕事ができる人よ」と、言って喜んでいた。私が木村さんに、友達が話していたことを伝えると、彼女は笑いながら、 「それは家森さんが私に使ってくださった、『すて塩』がよかったのよ、きっと」 「まぁ、人間にも『すて塩』が必要なの」と、吹き出しながら聞くと、 「だって、人間味って言うじゃない、いい味を出すためには適当な時期に適量の『すて塩』を使うことが、大切だと思います」と、言う木村さんのことばに笑いと涙が込み上げた。 随筆春秋 二十五年度賞 佳作受賞 |
| ひとりっ子 「ひとりっ子は、いいなあー」と、子供のころはいつもこう思っていた。 隣に住む同級生で、ひとりっ子の英子さんは、パン一個をそのまま食べ、リンゴ一つは丸かじり。洋服や靴が小さくなったら新調して貰って、そのたびに私に見せにくる。外で遊ぶ時も姉妹のいない英子さんは、妹を背負ったり、弟の手を引いたりしなくても、一人で自由に遊べる。 それに比べ、わが家では四人姉弟がいたから、小さなパンもリンゴも、母は四人に切り分けた。着るもの履くもの、私は姉のお下がりばかり、新品に袖を通したことがない。 母は姉のお下がりを私に着せる時、「お姉ちゃんが大切に着ているから、あんたに譲れるのよ」。 母はまるで、私にお古を着せることで姉を誇りに思っているようであった。 戦後、食糧不足、物不足のあの頃には、ひもじさのあまり姉弟がいることが幼い私にはうとましく感じたものだ。そのたびに、「ひとりっ子は、いいなあー」と、子ども心に羨ましかった。 ところが、父が戦死して六年後に母も亡くした私たち姉弟は、祖父母のお世話になりながら、慰めあい肩寄せ合って生きてきた。 当時まだ十三歳だった私は、何につけても両親のいない寂しさには耐えられないものがあった。 でも、姉の優しさは、他の誰にも感じられない頼れる温もりがあり、母親のように甘えられた。わずか四歳年上だけなのに。 弟や妹は私が逃げ隠れでもするかのように、「おねえちゃん、おねえちゃん」と、言いながら小さな体を寄せてくる。弟や妹のそんな仕草を見ると、両親を亡くしたことが、幼い身には私よりどれほど寂しいことかがよく伝わってくる。この弟や妹にできるだけのことをしてあげたい。外で貰った少しの食べ物も二人の喜ぶ様子見たさに持ち帰った。姉の匂いの染みついたお古の洋服を着ていれば、姉がいつもそばに居てくれると思えて心強い。 境遇の変化と歳を重ねるたびに姉弟の絆が生きるための大きな支えとなった。 やがて私も結婚して、子どもはなるたけ多くと思っていたが、男の子一人しか授からなかった。だから息子にはできるだけ姉妹の多い人を結婚相手に選び来てもらいたい、これが私の口癖で一番の願いでもあった。 息子も年頃となり、女友達から度々電話がかかってくるようになった。私としてはどんな方だろうと気になりながら、息子にはそれとなしに聞いてみるが、あまり詳しくは話さない。 それから一年が経ったころ、息子が急に改まった口調で、 「お母さん、付き合っている勝恵さんには兄弟が無く、ひとりっ子、しかもお母さんと二人暮らしなんだ」と、私の願いとはまるで反対のことを聞かされた。でも息子はさらに真剣な顔つきで、「優しくていい人だよ、お互いに結婚したいと思っている。一度会ってみて」。 私が一番望んでいたことをまず否定して、瞬きひとつしないで私の顔色を窺うように見つめた。 いつかはこんな日が来ることは予期していたが、よりによってひとりっ子の息子が、ひとりっ子の娘さんを好きになるとは、これも因縁かなと思いつつ、 「いいわよ、先様のご都合がいい日にお連れしなさい」。 このように言って二週間後、息子は勝恵さんを我が家へ連れてきた。 この日ばかりは夫も私もなぜか少し緊張して、息子の車の音ばかりを待っていた。 息子の後に入ってきた勝恵さんは長身で、厚化粧はしてないが、健康的な肌の色は化粧に勝る輝きがあった。可愛らしいというよりも、聡明そうな娘さんだ。 しばらく職場の話をし、お互いの家庭の話になった時、彼女は座布団をはずし、私たちの前に両手をつき、 「ひとつだけお願いがございます。私はひとりっ子ですので、嫁いでも私の母の行く末を看取らせて戴きたく思います」。 胸に閊えていた物を絞り出すように肩を震わせ、頭を畳に擦り付けて私たちに許しを請う勝恵さんの姿。 これが親を思う子どもの本心なのだ。ひとりっ子の責任の重さなんだと涙ながらに感じた。勝恵さんのこの言葉に人としての本当の優しさを感じた。 息子の妻として迎え、三十年余りの月日が流れた今も、その優しさは変わらない。 |
まだまだ心に沁みる本文を沢山掲載しています。
是非お読みください。
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