『老いの昆布味』 より



1)まえがき
| この本は冷や汗たらりのエッセイ集です。 老いとは、昆布やスルメのようなものです。干からびているように見えても、あぶったり、だしにするなど、適切な調理により滋味に溢れてきます。人は歳をとると、半乾きのスルメイカのようになった過ぎ去った人生を、もろくなった歯で繰り返し何とか咀嚼しようと試みます。希望、苦しみ、挫折、後悔などに満ちた過去を噛みほぐすのが難しいとき、笑いや詩情という歯で軽く噛みしめると、冷や汗と同時に喜びと感謝の滋味がしみ出てきます。 草鞋を履き、人生という重い笈を背負い、老いて「奥の細道」を歩く祈りの旅の様子を、平成二十四年三月に三冊目の本「億劫良の細道」の中で記しました。しかし未だに背負い続けている笈の中に、野道で摘み取った折々の季節の惣菜である小文がまだ沢山、ごった混ぜになって溜まっています。それを昆布だしの水炊き(よせ鍋)の料理(エッセイ)としました。 それは「人の世は悲喜交々入り混じった笑劇である」「雨空の上には常に太陽がある」「自然の中で生かされている」「禍福はあざなえる縄のごとし」ということが混じった複雑な味がし、最後に雑炊として味わうときは雑味が消え、瞑目されることでしょう。 小文は、方方の講演会で話したこと、友人との話、この五年間「新時代」誌(毎日新聞社内 認知症予防財団機関紙)に連載したコラム記事などで、それに瀬戸内や美作地方の美しい自然が背景になっています。 学術的なこと、現実の苦しいこと、理不尽で嫌なこと、悲劇などをそのまま赤裸々に記すのは容易ですが、それを読まれる方は苦しくなるので、いたしません。そしてマニュアル的な教訓めいたことも、おこがましいので述べません。その反対の、老いていく際のしみじみとした気持ち、悲しみや切なさの中で淡々と老年を生き抜く人の姿、自分を生かしてくれてきた自然の営みなどはとても素晴らしく、美しく、救いがあるので、それを表現したかったのですが、それを字数が限られた短いエッセイで表現するのはとても難しいことです。結果的に生と死と救いというテーマになりましたが、まとめるうちに、「自分が救われるには」という気持ちが常に根底にあることに気付かされました。「人の為という装い」をしていますが、私自身への戒めや慰めとなっています。 中年から老年にかけては、乗り越えるのに困難な険しい山路が待ち受けています。誰もが苦労を重ね、嘆き、生き延びるのに必死の人生だと思われます。不運続きの中、ため息をつきながらふと立ち止まるとき、よくぞここまで生きてきたものだと慨嘆されるでしょう。時の経過に癒されると、自分の幸運と周囲の人達の思いやりに気付き、感謝されることでしょう。或いは、そのように思いたいものだと願い、過ぎ越した自分の人生や周りのことを見つめ直したいと思われるでしょう。そのとき、自分を救ってくれた人の顔がきっと思い浮かぶはずです。 人は自然の中で生かされていることを実感できると、周りのことがとても新鮮に映り、面白さに満ち、欣喜雀躍し踊りたくなるほどの感謝の気持ちが湧きあがることがあります。「喜びと祝福の中で人は生まれ」「誰でも大変な苦労をして生き抜き、少しの幸せに感謝し」「どのような人でも最期を迎えるときは安らかなものである」と思いこむことにより人は救われる、というのが五十年間の診療体験の結論です。 ーー中 略ーー 第五章 「笑いの分析」では、笑いのエッセンスの分析を試みました。お笑いの要素を医学的に系統的に分析した、参考になる書物は残念ながら見つけられないまま、ここに頭をつっこんでみました。お笑いの専門家の手法を、門外漢で全くの素人が分析しましたので、たどたどしく、見当違いのことが多々あると思います。 あがりやすく口下手で挨拶もうまく出来ない私は、講演の要請が続くなか、苦しみ抜き、笑いの要素を取り入れることが必須であったので、お笑いの専門家の芸を何とか取り入れようとしました。 権威者によるマニュアル的な立派な建て前の話に聴き慣れた人が、名前も知らない、見栄えのしない私のような演者による本音の心の健康の話に、最初から耳を傾けることはまずありません。話す能力も乏しい自分には、せめて自分自身が笑いとユーモアの要素を心の中に取り入れることが不可欠であることを自覚しました。 笑いはどのようにして起こるのか、笑いの意味などを最初に記し、笑い話や小噺や話芸や演芸にはどのような技術が使われているかを、実例をあげて素人なりの分析をしていきました。しかし芸人の方たちの懐は深く、素人ではうかがい知れない世界があることが分かりました。 それで落語や漫才やコントをできるだけ沢山見聴きし、落語家が書いた本を読み、チャップリンやローワン・アトキンソンの無声映画を見、ギャグ漫画を楽しみ、笑いがどのような仕組みで起こるかという分析を続けました。そのうえで人を笑わせる工夫を学び、講演のときに利用していきました。いわば昆布のだし汁に添える「笑いのエッセンス」を記しました。 さあ、これから、孫悟空のようにきんと雲に乗り、大昔からのことや、生まれてから死ぬまでの断片的な場面に立ち寄り、そこで出会った人との立ち話を紹介し、寄り道をしながら方方を見ていきましょう。あっちに行ったりこっちに来たりして、あてのない旅です。このエッセイの旅につき合っていただく場合、鳥になって大空から人間世界を見渡すような気持ちになってお読みくださると幸いです。 |

2)本文中より
| 生き抜く 平成二十六年 一月 中国山地と吉備高原に挟まれた盆地の北に、ひと際高くそびえ、険しい山容の泉山が周囲を見下ろしています。凍てつく北風が吹くと、寒さから身を守るように山はすっぽり雲の外套に隠れてしまいます。オリオン座がカリンと響いた翌朝、風が止んだ盆地は深い霧に包まれ、全てがおぼろです。昼頃になりようやく霧が晴れると、泉山の真っ白な雪をまとった神々しい姿が青空に浮かび、他の山は沈黙します。 カリカリと光凍れるオリオンの星の額縁天に懸かれり 億劫良 防寒対策をし、その麓の里山にある森を散策する途中、雉の夫婦とばったり出合いました。五メートル離れていましたが、お互いにびっくりして見つめ合い、しばし動けなかったのですが、雉のメス(地味な保護色)はあわてて草むらに頭だけを突っ込みました。オスは派手な色の羽根をみせびらかし、私の気を引くかのように、瑠璃色の羽毛に続く真っ赤な頭部を持ちあげ、跳ねるように挑発して左方に進みました。私の注意が逸れた瞬間、メスが右側へ飛び立ち、グェーグェーと鳴き声をあげながら山の中に消えました。オスはどうかと視線を左に向けましたが、姿を見失いました。 オスの派手な外観はメスを危険から守る武器になるのでしょう。自然の動物は自分達を守るため必死に工夫を凝らしているようです。春になると子育てが始まります。私達人間も鳥と同じように、家族を守るために色々と工夫して生き抜こうとしています。ただ鳥と違うのは、メスのほうが派手で美しく賑やかで、オスはおとなしく地味なことでしょうか。 霜でかじかむ朝、施設でのデイサービスを受けに送迎の車から降り立った女性達は不自由ながら快活で、早速大声のおしゃべりが始まります。男性はというと多くの方は物静かです。職員を始め、皆さんが大切にしていることはどうやら、「ハ、ハハ、ハハハ」です。ハは歯を意味しますが、同時に食べることです。ハハは母や女性ということを意味し、女性を大切にすることで、ハハハは笑いを意味します。「ハハハハハハ」と笑いながら一日を過ごします。笑い疲れた夕方、「またお会いしましょう」と約束し、お別れします。 私は二十年前より企業や官庁などで働く若い人を対象にした「心の健康」についての講演をする際、心身の健康、対人関係、思うようにならないこの世の中で働き生き抜くための秘訣、人のお世話役である管理職の心得ておくこと、などというテーマの話をしますが、実は認知症予防財団編集の「認知症三十カ条」の内容と考え方はほぼ同じなのです。認知症ということに焦点をあてて故障を予防することとか、それを持ちながらどのように生きていくか、周囲の人がどのように受容しながら高齢者のお世話をしていくかという知恵は、認知症ということでなくても全ての年代の人の心の健康にあてはまります。 |
| 早春の散歩 平成二十四年 三月 暖かい日がしばらく続くと、「ああ、そうそう」と忘れ物を取りに息せききって冬が舞い戻り、少し腰を据えたかと思うと、「お邪魔しました」と慌ただしく北の方に帰っていきます。かすかな音をたてて流れる小川に沿い、まだ冬枯れの畦道と桜並木が続いています。ノビルが背伸びをし、蕗のとうがつかの間の陽気に誘われておずおずと頭をもたげる頃、A子さんは川のそばにある介護施設で人生の幕を静かに下ろしました。九十五歳でした。上品で物静かな、笑顔のすてきな方でした。何かにつけ、「ありがとう」と感謝されました。 A子さんは高齢になるまで達者に暮らし、毎日田畑や花を見て回り、散歩することが何よりの楽しみでした。しかし五年前、自宅のトイレで転び、身動きができなくなり病院に運ばれ、大腿骨頚部骨折のため大手術を受けました。貧血を伴い、弱って寝込んだままとなり、慣れない環境で身動きができない苦痛と痛みが加わり、夜間せん妄(脳に負担がかかったため軽い意識障害が起こり、見当識を失い、まとまりのない言動や、興奮、幻覚を伴う不眠が起こる状態)が起こりました。夜眠らず大声で人を呼び続け、昼間はずっと寝ていました。夜と昼が逆転してしまったのです。不穏な状態を改善しようとして睡眠導入剤などを使いすぎると終日眠ったままとなり、家族も関係者も彼女に認知症が急激に起こったものと思い込みました。無理のないリハビリを数日間受け、十日間の入院生活の後、老健施設に搬送されました。 体力が落ち、日中ぼんやりとし、夜間せん妄が依然として起こっていました。リハビリの専門家がたずさわり、計画をたて、痛みがあっても徐々に下肢を動かす訓練の開始です。寝たきりにならないよう、日中は明るいデイルームで過ごし、できるだけ職員との関わりを多くし、話しかけていきました。日中の活動量が増えていくに従い、夜間せん妄が解消していきました。環境に慣れていくに従い、会話もまとまってきて、次第に元の彼女の姿に戻っていきました。残念ながら手術した所は痛く、股関節の動きに制限が残りました。安定した時点でグループホームに移りました。 車椅子を押してもらったり、歩行補助車を利用して歩き、バリアフリーとなっている花咲く農道を散策するのが楽しみとなりました。自然の中に出ると、とても幸せになるのです。 それから五年経ちました。小川のそばの今年の桜のつぼみはまだ目を閉じたまま佇んでいます。木蓮も同様です。 平成二十三年三月十一日、東日本大震災で罹災された方がたにお見舞申し上げます。 木蓮の白き黙禱野に満つる 億劫良 |
| ひとりごと 平成二十七年 四月 北に標高千二百メートルの峰が続く中国山地と、南に吉備高原に囲まれた広い盆地にある城下町の、職人が集まる街で私は生まれ育ちました。そこは隣の屋根と壁が続き、滑らないようにすれば屋根伝いに近所のどこにでも渡ることができました。裸足で二階の屋根に登り、瓦棟にまたがれば遮るものはなく、一人だけの絶景が広がっていました。雪山を背景に、石垣のそびえ立つお城山が桜花に埋もれているのを眺めていると幸せに包まれ、山々の向こうにはどのような素晴らしい世界が広がっているのだろうと子供心に夢想しました。 今や見ることができなくなった静かな原風景を求め、花見客のいない所で咲いている桜花を見に、ふらりと出掛けます。 平野の桜が散ってしまった四月中旬、標高四百メートルほどの吉備高原の頂に立つと、谷の向こう側のうねうねと続く高原に牧草地と森が広がっているのが見えます。その牧草地の縁がぼんやりとピンク色に染まっています。谷を降り、そこを目指して登っていくと、予想どおり桜の大樹が何本も満開になっています。牛の他には、牧草と空と静寂とそよ風。 高原の裾の山里に認知症の方たちをお世話する老人介護施設があります。そこに九十五歳になる女性が七年間住んでいます。とても上品で礼儀正しく、ときに笑顔を浮かべ、謙遜深く穏やかで、皆さんといっしょに食事を摂るときには、必ず両手を合わせ、「頂きます。ありがとうございます」とおっしゃってから、ゆっくりと食べ始められます。 一人で何もすることなく座っているときは姿勢を正したまま、終日小声でのひとりごとが漏れ聞こえます。耳を澄ませば、 「あの時は、…… あれでよかったのかな、そうかな……ごめん な、つらかったな……」と、過去の繰り言のようです。 『今どなたと話しておられるのですか』と私が質問すると、 「勿論、もう一人の私です」 『昔、つらいことがあったことを思い出しておられるのでしょうか』 「そうです」 『どのようなことがあったのか教えていただけますか』 「それは言えません。思い出すことは、昔の辛く悲しいことばかりです。お話ししても聞き苦し いことばかりです」 『…… 失礼しました』 再びAさんはひとりごとの世界に戻られました。 Aさんは五歳のとき両親が亡くなり、親戚にひきとられました。厳しいしつけを受け、安心していられる居場所がないまま、十二歳のときには飲食業を営む商家に奉公に出されました。客商売なので行儀作法を厳しく仕込まれ、食事の支度や家事全般にわたり奉公し、二十歳のときお客さんに見染められ、結婚しました。その後も人目を気にしながらの人生を送られました。二人の子供は早逝し、夫も五十歳で亡くなり、その後は一人暮らしとなりました。孤独な人生で、全ての悲しみを自分のこころの中に納めてしまっておられます。 老いてまた出会う弧高の山桜 億劫良 |
| 十五.商売の手伝い 昔は今と較べれば皆が貧乏でした。城下町の実直な職人達が集まった町に生まれ育った私には金持ちとか貧乏とかいう感覚はなく、ただひたすらその日の生活に追われている人達や家族の姿が目に焼き付いています。 私の父は明治の半ばに生まれ、二十歳代で独立し砂糖卸業の店を持ちました。 昭和十六年に私は六番目の末っ子として出生しましたが、その年の十二月、太平洋戦争が始まりました。それを契機に砂糖の輸入がストップし、ほんのわずかな量の砂糖の配給制となりましたが、それも破綻しました。砂糖販売業が成り立たず、戦中から戦後しばらくは収入が途絶えたため困窮しました。終戦後しばらくして粗糖が再び輸入されるようになり、待望の砂糖の配給販売が再開されました。やがて、その日の砂糖相場で卸し値段や小売り値段が決まるという取り決めがなされました。小幅な値動きですが父は相場を張るようなものだと言い、時代の変化やラジオ速報に耳を澄ませていました。先物値段を予想して買い付け、荷が着いた後は少しでも値上がりするのを期待するのです。 商品相場で一喜一憂する両親の姿を見て、商売の厳しさを子供の時より知りました。社会というものは流動的なもので、確かなものは何一つないということを身に沁みて分かっていました。「ずる賢い人もいるし、人は自分本位で嘘をつくこともあり、真実を見抜き人にだまされないようにすること、誠実に応対し人に信頼される人間になることが大切だ」ということを父親の後ろ姿より教えられました。 小学生になると店の手伝いをするようになりました。夜は小売用の紙袋を作っていました。ご飯粒の残りを集めて水を注ぎ煮立てて糊をつくり、紙を折り、糊を刷毛で貼り付けて砂糖袋を作っていました。それに砂糖を正確に一斤ずつ詰めていくのですが、そのうち秤にかけなくても手の感覚で二 ~ 三グラム程度の誤差内ですむようになりました。これが夜なべ仕事の末の熟練技です。 小学校の授業が終わって家に帰ると自転車で砂糖配達です。小学生にとって三十キロの砂糖袋を荷台に乗せて運転するのは危なっかしくもあり、同時に楽しいものでした。誉められると嬉しくなり、誇らしい気持ちになりました。 未払い金の集金のため盆暮れに請求書を持って店回りをしましたが、子供が請求に来たということで数軒の店は私を小馬鹿にした応対をされ、繁盛している店先で「払う金はない。どうしてもというなら、そこの製品を持って行け」と凄まれました。お金を払ってもらえないときは泣きたくなり、口に出すのも恥ずかしく、今でも憶えている故郷の悲しい苦い思い出です。父が歳をとって商売を辞めるとき、未収金が沢山残りました。 戦後間もなくは、私の見聞きする範囲では、津山の町の人の多くはとても貧しく、生きていくのに必死でした。お米も充分手に入らず、農家の母の里に歩いて食糧を貰いに行く片道八キロの道中、幼い私の仕事は、イナゴ(バッタ)を捕って布袋に入れることでした。疲れ果て、私がへたりこむと、母が少しの間だけ背中におぶってくれ、椿の葉などで草笛を作り吹いてくれました。 「元気になったか?」という言葉で再び歩き出します。泉が湧くところで喉を潤すと、祖母の家が見えてきます。到着し、小川や田んぼで魚を獲るのが楽しみで、夕食に小魚が供されて、「よく獲ったね」と誉められるとき、鼻高々となりました。 翌日帰宅すると、イナゴをフライパンで炒り、醤油を垂らし、それがおかずの一品となりました。 草笛を聴いたはいつか母のせな 億劫良 中学生になる頃は大型の運搬用の自転車に乗るようになり、砂糖二袋(六十キロ)を荷台に積み、ふらふらしながら転倒しないように配達していました。降りるときが危険で、狭い道で自動車に出くわすときは避けようとしても降りきれず、自転車と荷物ごと、どっと横に倒れてしまいます。そのとき二重になっている厚い紙袋が一部破れて中の砂糖がこぼれました。それを分からないように繕い、破れた所を折り込んで黙って配達したとき、店主が「坊主、ご苦労さん。そこの奥に入れといてくれ」と言われるので、そのとおりにして黙って代金をいただき帰ってしまいました。その後クレームは入らず(親は私に黙っていたのかもしれません)、世の中には優しい商売人もいるのだなとありがたく思いました。 出生時のことに戻ります。 母親が四十歳過ぎに妊娠しました。高齢出産となるため多大な懸念と躊躇がありましたが、母の弟(叔父で産婦人科医)が産むことを強く主張し、結局叔父の手助けで出産しました。それが私です。当時母はリュウマチで手が変形していたため、姉たちが母親代わりに世話をし、オムツなどの世話をしたそうで、オムツを洗うのも姉たちでした。栄養不良で、乳歯が生えてきた時はすでに虫歯だったそうです。 その年、太平洋戦争が始まり、私の命の恩人である叔父は結婚直後、徴兵されて出征し、軍医としてフィリピンのミンダナオ島のジャングルで戦死しました。遺骨はありません。 暑い夏に生まれたので、「あつし」と名付けられました。さまざまな人のおかげで、いつのまにか七十五歳の誕生日を迎えました。その日の空は真っ青に晴れ上がり、熱帯の灼熱の太陽が輝き、乾いた風が吹いていました。 |

まだまだ心に沁みる本文が続きます。
是非お読みください。
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