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特 集 (C) 『ビルマ戦線従軍記』 

 戦争体験者が語る、平和への切なる願い 

 多大な犠牲を強いられた一億の民と、戦場で散った日本兵士の無念の思いを私どもは忘れることなく、
いつまでも慰めねばならないと思います。それが私どもの責任でもあり務めであると考えます。
   ー中 略―
私ども人間として、地球人として、新兵器の開発や各国の国防についてしっかりと議論していかねばならないと思います。
新兵器の開発にはたくさんのお金がかかります。人間同士の殺戮にそんな無駄なお金を費やしてよいのでしょうか。
次々と新兵器を開発するよりも、同じ地球に暮らす人間として、いかに仲良く生きていくかということを考えるべきだと思います。

  著者「あとがき」より抜粋 



              
                          

入隊から終戦帰国までの時系列
 
 ・昭和18年3月 丸亀歩兵連隊入隊
 ・昭和18年7月 ビルマ8415部隊配属
 ・昭和18年9月1日 宇品港より出航 シンガポール港入港(9月9日)
 ・昭和18年9月17日 シンガポールよりペナン ― タイ国チュポン ― ビクトリアポイント ― ビルマ南部メルギー 
       10月9日 ラングーンへ到着
    【ハ号作戦に参加】
 ・昭和19年6月 マラリアに罹患 (6ケ月のあいだ生死をさまよう)
 ・昭和20年2月 戦線復帰
    【シッタンにて終戦を迎える】
 ・昭和21年6月まで マルタバン収容所で現地復興に携わる
 ・昭和21年7月25日 祖国 宇品港に帰還 



  本文より抜粋  


ハ号作戦に関する執筆箇所より

〇私どものハ号作戦は、一週間で英印軍を撃滅して帰っていなければならないのに、今日になってもシンゼイワへの総攻撃の命令が下らないのです。師団司令部は速やかに総攻撃をして対岸の日本軍陣地まで帰らなければ食糧不足で戦争になりません。早く総攻撃をかけよと指令がくるのですが、棚橋連隊のほうでは、その総攻撃に断固反対を主張したのです。
 この後、棚橋連隊長は南方総軍へ呼び出されたのではないか、と推察されます。終戦後、昭和二十一年二月、棚橋大佐は自刃されました。大佐は自分の生命で部隊員を救ったのだと私は思いました。


〇その夕方、英空軍が活動できない時刻より、東方へ方向を変えたのです。この付近は原野で、草の中から「お面」との合言葉が聞こえるのです。このときの私どもの空腹は想像を超えていたものでした。もう何日もまともな食事はしていません。しかし腹は減っていても耳はよく聞こえます。あぁ、日本兵の合言葉だ、何処かで「お胴」という返答の言葉も聞こえてきます。そして雑草の中より、大きな袋を背負った日本兵が見えました。彼らの身を守るものは帯剣と手榴弾二つです。この人達十数名は、決死の覚悟で兵士用乾パンを携帯テントに包み、精一杯大きな荷物を担いでいます。その人達の姿に、私どもは涙を流して感謝しました。「私は荷物を下ろすと後は担げないので、背中の袋へ帯剣で穴を開けて、手でとってください」というのです。分隊長の剣で手の入るくらいの穴を開けて、一人十個ずつの乾パンを受けました。我々は、彼らの命がけの輸送に、涙を流して乾パンを食べたのです。


〇二月一日からのハ号作戦、日本軍の必死の戦いでビルマ東南部の地域は確保しているのですが、如何せん、海からの輸送がシンガポールより西へは入れないということです。その原因は制空権がないからです。制空権が無ければ戦に勝つことは出来ないのに、無理な作戦で兵士の命を無駄にするのです。武器はあっても弾はない。栄養失調で病気になっても充分な手当てがないので、死んでしまうのです。昨年秋よりのビルマ西部の覇権争いも日本側で犠牲者は二千人、日本兵の半年後の戦列復帰は六百人。英印側で七百人の犠牲者、同じく半年後の戦列復帰は七割と思われます。この違いは、負傷者を素早く後方の病院へ送り十分な看護をする英軍と、すべてにおいて不十分な処置しかできない日本軍の違いだと思います。多くの日本兵が見殺しにされたことでしょう。



マラリア闘病中の執筆箇所より

〇さて、六月末頃になると私の体調に変化が現れ始めました。それは午後二、三時になると発熱し、体が震えてくるのです。それで一番物知りの高島上等兵に聞いてみると、
「それは、この熱帯地方で一番厄介なマラリアという病気だ。ちゃんと手当てしないと命がないぞ。病院に行って診察してもらわないと」と言われ、分隊長に報告しました。分隊長は南東七キロ程先のレザーセという所の野戦病院に行くように言いました。そして、連隊の軍医に診てもらい、衛生兵に書類を作ってもらいました。
 レザーセの病院へは七月二日の早朝に出発しました。


〇ところがその夜、発熱しマラリア熱の上に悪性の夢、幻影を見たのかうなされました。その夢とは、三年ほど前に大阪の映画館で「ハリケーン」というフランス映画を見たのですが、ジャワ島近くのリン鉱石の取れる島で大型ハリケーンが発生し、現地人の若者とリン鉱石堀場の役人の娘の恋物語です。二人の仲に反対する娘の両親と会社の工員と、この娘と現地人の若者、それを助けるフランス人若者と私が登場してきます。私は若い恋人を助け、リン鉱石会社の守衛達と戦います。
私は必死になって戦っているわけですが、実際は夢でうなされているのだけなので、病室の他の患者に大変な危害を加えたようです。その暴行によって、私は上等兵に竹の床へ両手足を縛り付けられました。次の日の午後二時に放して貰ったのですが、その傷は今も大きな傷跡になって残っています。


〇 私のいる十号室は重病患者なので、衛生兵の直接給与で食品投薬が行われていたのですが、担当医は患者の病状はわかっていても、手当ての方法がなかったのか、訪ねて来た事もなければ、診察にも来ませんでした。朝、衛生兵が食事を持ってきて、「○○上等兵が死んで居ります。」というと、
「そうか」と言って、午後からその死亡者の身元整理に来て、まず背嚢を調べます。そして軍隊手帳、認識証と家族へ送る遺品を整理して最後に千人針の中へ入れて、小さな包みにします。頭髪の一部と小指を切り、何処かで焼いてこれも小さな包みにし、住所を確認し、所属部隊へ送る準備をします。病死者は毛布に包まれ、病室から送り出されます。その亡骸が病室を出る際に「○○上等兵の出棺」という発声で、同室の人が両手を合わせて、南無阿弥陀仏と三唱します。その時に眠り続けている人は、次は同じ運命を辿る場合が多いのです。私のタンガップの三十日の病院生活で何人の人が、衛生兵の担架で運ばれたことでしょう。
 私はその度に、腹が立つやなら情けないやら悔しい思いをしました。いったい誰が、国を出る時こんな状況を予想できたでしょうか。こんな所でこんな状況で、誰にも看取られず、ひとり消えていくのです。



終戦~帰国までの執筆箇所より

〇日本兵の戦闘においては、捕虜は認めないという規定があり、我々も上官より「捕虜になるくらいなら自害せよ」という言葉をもらっていました。これは、日本軍規にも出ています。外国では「捕虜になっても生き残れ」という考え方が一般的なようです。


〇私が宇品へ上陸したのは昭和二十一年七月二十五日でした。
      ―中  略―
広島駅より各自の目的地へと帰ります。乗車して十分位で広島市街が見えてくるのですが、点所にコンクリートの煙突が残っているくらいで、住宅、工場、学校など何もなく、これが原子爆弾の破壊の跡か…… と私ども戦友も誰一人言葉が出ないほど愕然としたものです。原爆投下当時は六十年間草木は生えないと云われていましたが、その二年後、広島へ行くことがありました。下車してみると草が生えてきていて、家もボツボツと建っていました。広島も大きく発展して綺麗な街に生まれ変わるようにと祈ったものです。


〇岡山で下車して、待ち時間が一時間ありましたので、岡山の街の様子を見に行きました。岡山の街も広島と大きく変わりなく、一番に気づいたのは鉄筋コンクリートの天満屋デパートが焼けてしまったことです。他には小さな手製のバラック小屋が目に付きました。駅前通りを南の方へ向って工具屋さんが三軒並んで僅かな商品を並べていました。駅前の中筋商店街へ入ってみると、歯抜けながら一応バラック建ての小さな家で『何でも買います』という看板が立っていました。商店街の店頭には半分近くが外国の旗が出ていました。少しは売るものもあるのですが、『何でも買います』ということは、品物がないのです。戦争に負ければ、先ず品物がなくなります。特に食糧品は大変少なくなっていたのです。

過去の戦争の悲劇を思い起こし、
地球上の人類が皆仲良く楽しく暮らしていくことを祈るばかりです。
                                       (あとがきより)


著者の、そして戦争によって亡くなった人たち・残された家族の切なる願い
「争いのない平和な世界」
私たちは、この想いを本当に継承できているのでしょうか。
私たちができることは、何なのでしょうか。


続きは、『本書』をご覧ください。

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